2023.03.23
普通の営業パーソンだった原晋さんが駅伝監督として羽ばたくまでのキャリア選択 ~doda編集長/対談インタビュー前編~



中学から陸上を始め、高校・大学・社会人と競技者人生を送ってきた青山学院大学陸上競技部の原晋監督。中国電力の営業を経て、2004年に同監督に就任。2009年に同校を33年ぶりの箱根駅伝出場に導いて以来、6回の総合優勝を果たすなど、その指導法は、陸上界はもちろん、ビジネスパーソンにも注目されています。「指導経験なし」「箱根駅伝への出場経験なし」「別大学のOB」という経歴のなか、異例のキャリアチェンジを遂げた原監督が、どのように自らの道を切り開いてきたのか。原監督の「キャリアオーナーシップ」、すなわち自らの意志で「はたらく」を選択することに、転職サービス「doda」の編集長・大浦征也が迫ります。
アスリートはスポーツ以外もできるんだ
大浦:本日はよろしくお願いいたします。広島県三原市にある原監督のご実家は、中国駅伝のコースになっていた国道2号線に近い場所にあったそうですね。その影響で、陸上を始めたと。三原市中学校駅伝大会に出場する際は、陸上部に長距離選手がいなかったことから、テニス部やバスケットボール部などの生徒による、急ごしらえのチームで優勝。チーム編成・区間の人選など、当時の原少年が優勝という目標のために戦略を練り、指揮をとっていたのですから、監督としての片鱗が既に見えていたとも言えます。
原:とても光栄なお言葉ですが、挫折も味わいました。広島の世羅高等学校という駅伝強豪校では、チームの主将を務め、全国高校駅伝大会で準優勝という成績を残しています。しかし、世羅高校を卒業した後に進学した中京大学、新卒で入社した中国電力の陸上部では、競技者として成功したとは言えない成績でした。最終的には、故障で引退しています。これが最初の挫折です。

大浦:現在の原監督からは想像できない日々を過ごしていたのですね。
原:そして、競技者としての人生を終えた後に待っていたのは、営業パーソンとしての日々。入社してからの何年かは、異動の度に小さな営業所に配属され、社会人としても挫折感を味わっていました。
大浦:しかし、競技者として引退した入社5年目には、“提案営業”という仕事で、営業として大きく開花しました。夏場の電力供給を効率化して、コスト削減につながる提案をする、という仕事だったと聞いています。当時、成功へと導いたのは何だったのでしょうか。
原:私は、アスリートは競技しかできないと思われたくないと思っており、それを、自分の身をもって証明したいという想いがありました。スポーツでメダルを取るような、いくら輝かしい才能を持っていても、その世界だけでしか生きられないようではダメだと思っているんですね。スポーツの世界で輝くことができたのなら、そこに費やした努力や姿勢というのは、ほかの世界でも通用するはずです。いや、ほかの世界でも通用するように生きるべきなんです。要は、アスリートのセカンドキャリアを問うているんです。
3割が賛成する道なら迷わず進む
大浦:営業のおもしろさに気付いた原監督は、その後、社内公募の新商品のプロジェクトに応募して、社内表彰されるほどの成績を残しています。そして、入社して10年が経ったころに、青山学院大学陸上競技部の監督として白羽の矢が立つことになります。でも、どうして、指導経験がなく、青学OBでもない――いわば普通の営業パーソンだった原監督にオファーがあったのでしょうか。

原:世羅高校時代の後輩に、青学のOBになった人がいました。彼も、大学卒業後は広島ではたらいていたこともあり、酒を酌み交わす仲です。実は、その彼こそが青学の陸上競技部監督のオファーを受けていたのですが、指導論について熱く話をしているなかで、「原さんに任せたい」と思ってくれたようです。
大浦:すごい。熱い想いは、人の心を動かすのですね。青学の陸上競技部は1918年に創部した、伝統あるチームです。一方で、1976年を最後に箱根駅伝の舞台からは長らく遠ざかっていたという状況でした。成功の保証がないなかで、オファーを受けようと思えた理由を教えてください。
原:私が思い描いていた人生の“やりたいことリスト”のナンバーワンが、学校の教員でした。なかでも、部活動の指導者になりたいという想いを強く持っていました。そのチャンスが、ようやく巡ってきたと。もう、答えは決まっていますよね。営業での知見を、陸上競技の指導に活かせるだろうという気持ちもありました。目標を立てて戦略を練り、実践に落とし込んでいけば、必ず勝機が見えてくるはずだと。
大浦:営業としての裏打ちが、決め手となったのですね。また、トップセールスの営業パーソンという道から離れるのは、勇気が必要だったのではないですか? 既にご結婚もされて、ご自宅のローンも組んでいたと著書にはあります。
原:あとは、私の考える“3割理論”というものがありまして。世の中、何かを進めるにあたって、“3割の人は賛同し、3割の人は否定し、3割の人はどちらでもいいと思っていて、1割の人は何も考えていない”という持論です。つまり、3割は否定意見があって当然だと。でも、それと同じくらいの人が肯定してくれた道なら進むに値する、勝利の道筋が見えてくると思っているんです。それが、キャリアチェンジの後押しとなりました。妻に打ち明けたところ、ビックリされましたけどね(笑)。
ひんしゅくを買ってでもメディアに出る理由
大浦:胸が熱くなります。原監督の何がすごいかと言われれば、2004年に就任し、2009年には箱根駅伝への出場を果たしているところですよね。そして、2015年〜2018年には史上4校目の4連覇という偉業を成し遂げて、箱根駅伝そのものの人気まで押し上げたというご実績があります。就任時にも、箱根駅伝は一定の人気は当然ありましたが、今ほどの盛り上がりではなかったと思うのです。ここまでの人気になると、当時はイメージしていたのでしょうか?
原:実は思い描いていました。現在も、日本の陸上界を変えたいという思いでいます。何事も、勝つだけではなく、普及活動が大切なんです。これも、目標を達成するための戦略ですね。特に組織の発展には、勝利・資金・普及の3つの循環が必要です。強いだけの大学は、かつてもありました。しかし、普及活動はしてこなかった。でもね、普及活動をすることで世の人々に認知され、スポンサーになってくださる企業などが見つかるわけです。資金があると、環境が充実していきます。そうして、選手が強くなる土壌が耕されていく。循環していくメカニズムをつくらない限りは、組織は発展しませんよ。

大浦:たしかに。複数の世界と交わることで、発展のチャンスは増えるように思います。
原:おっしゃるとおりです。私がテレビに出たり、メディアにコメントを寄せたりすることに対してさまざまな意見がありますが、違う世界に飛び出して、陸上っておもしろいんだぞと、多くの方に知ってもらわなければいけないと思っています。毎年発表しているスローガン(※作戦名)も、どうすれば21校が駅伝に参加するなかでメディアに取り上げてもらえるかを考えてのことです。
大浦:そのような戦略を持って、普及に努めてきたのですね。普及活動を行うことも、さかのぼって監督の依頼を引き受けたことも、原監督にとっては新しいチャレンジですよね。チャレンジにはリスクが伴うものですが、リスクを背負う選択はしない。つまりは、挫折を避けるのが、今の風潮です。なぜだと思いますか?
原:それは、一度の失敗でたたきのめすくらいに社会が抑え込むからじゃないですか。それと、レールに沿って進んでいくのは簡単ですから。成功を求めるよりも失敗をしたくないんです。
大浦:後編では、原監督が挫折を気に留めずにチャレンジする思考回路に迫りたいと思います。
※掲載している内容・肩書・社員の所属は取材当時のものです。
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